緊急事態も開けたので、久々に数人のアラフォー女による ”めんどくささ解放セッション"を行いました(笑)。
現時点でのモヤりや嘆きを放ち合う中でまず分かったことは、このパンデミックな状況下で、私たちは結構疲れているということ。
”コロナ禍” 関係無く、対応を迫られる日常的な変化球へのストレスに加え、「いつ終わるか分からない、いつ変わるか分からない」出口の見えない感染症対策に、思った以上に心は疲弊しています。
そしてそれにより、私たちは不安や寂しさなどのマイナスな感情を抱き、極端な言い方をすれば、以前より死というものをイメージしやすくなったことで、自分の生きる意味や自己の価値について考える機会も増えているように思えます。
セッション(という名のお喋り)に参加した人間の属性は"40歳前後の女性"たちです。
それが "コロナ禍"・"アラフォー"・"女"、ならではの生きづらさ(というと大袈裟かも)故なのかどうかはわかりませんが、私たちは今、「まるっと受け止めてくれる大きな愛」を求めているようでした。
「“ let it go”=ありのままで/そのままでいいじゃん(諦める・受け入れる)」と歌いながら「少しも寒くないわ」とずっと一人で過ごすほどの強さを私たちは持ち合わせていなくて、中年になると、これまでの自分の生き方について、そしてこれからの自分の生き方について考えるようになります。
そして、大体、少し暗い気持ちになります。
そんな時、寂しさや承認欲求などの満たされない欲求や、中年に至るまで解消されて来なかったコンプレックスの穴から引き上げてくれるのは、自分を褒め、認めて、受け入れてくれる存在です。
だいたい私たちが自分の評価を見直す時、そこには他者が介在しています。
ある他者との関係性の中で、”ありのままでいいんだ” という気持ちが芽生えた場合、それはとても貴重で、その出会いは非常に奇跡的とも言えます。
なぜなら、そのような「自分の味方になってくれそうな・自分を常に元気付けてくれるような存在」は、見つけようと努力して見つかるものではないということを、私たちはこれまで生きてきた中で重々理解しています。
それでも、やっぱり、中年になっても、中年だからこそ?私たちはそういう誰かを必要としています。
「よく頑張ってるね」とか「それでいいんだよ」と言ってくれる誰かの存在が無ければ、ありのままで居ようと努めることなんてほぼ不可能とも思えます。
”コロナとの闘い”に少し光が見えてきたように感じる今、欲求不満やコンプレックスの穴を埋めて浮上しようとする中で、無条件に全てを受け止め、抱きしめてくれるような存在を求めてしまう。そんなものは幻想だと分かっていても、もしかしたら「待ち人は来たる」のかもしれないと願ってしまう。
しかし、そんなヒリヒリした心理状態であるにも関わらず、私たちアラフォーは、その求める存在のハードルが結構高いのもまた事実。
中年女セッションの中でひしひしと感じたのは、「絶対的な見方となってくれる誰かが必要だけど、誰でもいい訳ではない」という傲慢さ。
これには思わず自分たちで苦笑いしてしまいました。
そう、私たちは非常に自分本位で身勝手。でも、こんな風に図々しく居られるからこそ、欲求不満やコンプレックスをやり過ごして今日まで生きて来られているのかな、とも思います。
結局は、自分が「相応しい」と認めた相手との、自分にとって「都合の良い」関係性を構築し、それを維持できるかどうかが、アラフォーを欲求不満や漠然とした不安、コンプレックスから引き離してくれる力になるのではないか、と今日のところは結論づけたいと思います。
いつかエルサみたいに、微笑みを讃え、「そうよ、愛よ。」と呟けますように。