Room Me Mine

迷子のアラフォー部屋

【vol.020】自分が自分を馬鹿にすることがないように、私たちは注意深く己を観察しなければならない。

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誰かに軽んじられていると分かっていながらそれを拒絶しないこと、変化を求めながらも同じ場所から動こうとしない自分を見逃すこと、それらは自分が自分を馬鹿にしているという状態かもしれません。

 

私たちは日常生活を送る中で、心の中では特に自分に非があると思っていないのにその場を円滑に収束させるために謝ってみたり、本当は詳細まで理解していることでも、それを表明することで生じる煩わしさを避けるために分からないふりをしてみたりなど、かなりのハイコンテクストな社会を生きています。

 

「否、そのような自分を偽るような判断は一度たりとも行ったことなどない」という方もいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも私は立場や状況に応じて上記のような対応をすることがあります。

 

そうすることでその時のシチュエーションが自分の意図したように着地すれば良いのですが、残念ながら思ったような結果を導き出せないこともあるでしょう。

また、そういった対応をし続けていると、そのコミュニティの中での自分の立ち位置や人間関係によろしくない影響を与えてしまうことも出てくる為、その都度見極めることが大切です。

 

しかし、もっと気をつけないといけない事は、そういった面倒くささや事なかれ主義、もしくは自分の中の違和感を見てみぬふりをしているが故の行為が恒常化してしまうと、他人から、そして自分からも馬鹿にされてしまうかもしれないという事です。

 

私たちは、他人から馬鹿にされているということについては敏感に察知しますが、自分が自分を馬鹿にしているという状況はなかなか認識できないかもしれません。

 

「自分から馬鹿にされる」という状況は、平たく言うと自分を大切にせず軽んじるようなイメージです。

例えば誰かから冷遇されているとして、冷遇されていることは自覚しているし、冷遇する相手のことも軽く軽蔑しているけど、その対応について改善を求め抗議するようなことはしない。

それは一見、”大人の対応” であるようにも見えますが、実際は自分が “冷遇される自分” を受け入れてしまっていることになります。

 

以前、「適当に諦めることがアラフォーを生きるために必要である」と言うようなことを書きましたが、”冷遇される自分を受け入れる” ことは、単純に考えて受容すべきでないことは明白でしょう。

諦めるのは、自分が囚われている過剰な期待や理想(「~べき」という思い)であり、自分が他者から押し付けられる理不尽な役割や周囲からの理解不能な圧力ではありません。

NOというべきものまで許容するのは間違っています。

このさじ加減は理屈で考えると難しいところかもしれませんが。

 

この違いに気づくためには、自分がその受け入れを快く思うかどうか、考えてみると良いかもしれません。

自分の「べき」を上手に手放すことができ、諦められた時は、きっと心地良さを感じるはずで、自分に対し誇らしさも抱くでしょう。

一方、消極的な諦めの判断を行った場合は、事あるごとに「仕方ない」というような言い訳じみた思いが自分の頭をかすめるでしょうし、決して自分が心から納得しているとは言えないような受け入れとなっていて、ふとした瞬間に惨めさを感じることもあるかもしれません。

 

「自分はうまく立ち振る舞えている」と思っていたはずなのに、何か違和感を抱いたり、惨めさや虚しさを感じることがあったら、自分に馬鹿にされているかもしれません。

一番身近な味方である自分を信頼し、この複雑な毎日を共闘していくためにも、自分が自分を軽んじてしまうことがないよう注視していきましょう。